通過

3つの部屋と1つのテキスト

本展は、志村茉那美と前田耕平、企画者でもある片山達貴の3名の映像、そして藤本流位のテキストよって構成される展示です。3名の作家は新作の映像を制作した後、それぞれの作品データを交換。そして交換した他者の作品データを、自身のプライベート空間(自室ないし自分のスタジオ)に展示します。ウェブ上には、それぞれの場所での作品展示風景の記録映像を公開しています。

異なる作者が互いの作品に触れ、別々の3つの部屋が関わり合い、ウェブ上に新たなもうひとつの風景を立ち上がらせることを目指した試みです。

通過し、出ていく


藤本流位

オンライン展覧会を企画すると、最初に片山さんから連絡があったのは6月17日。オンライン展覧会は作品の横に別の作品があるというシンプルな刺激がない、作品同士の関係性について考えるような展覧会をしたいと、片山さんは言っていました。ウェブでの展覧会は、物理的に開催した展覧会の様子をアーカイブしたようなもの以外の場合だと、VRを使っているものや、ウェブの持つ特性を生かしたものなどはありつつも、作品ごとに画像が明確に区分けされていることがほとんどで、確かにそれは関係性というよりも、データファイルのように一覧化されている展覧会です。
作品が展覧会を通過することによって、作品そのものから変化した意味の体験があること。それは、これまでの物理的な展覧会においてはあたりまえのように経験されてきたことかもしれませんが、そのような経験に対して、再発見的に視点が開かれたことは新型コロナウイルスによる影響が大きいと考えられます。
本展覧会は、参加作家の間で各作品をデータによって交換し、観客はデータを受け取った作家によって作品が再生される各部屋の様子を展示として観ていくという仕掛けになっています。そのため、展示されているものは作家によって制作された一次的な制作物ということではなく、それらが交換というかたちで別の参加作家を通過した二次的な作品ということになります。ここでは、「部屋」というメディアを媒介し、元の映像作品を再生するというルールが設定されています。この仕組み自体も片山さんの企画初期からあったものです。

さて、ここまで「通過」という言葉を少し意図的に使いながら、展覧会の主旨や内実について説明していきました。ここからは通過すること、通り過ぎることによる変化について考えていきます。
何かを通過すると、それまでの経験が今までとは違ったもののように思えてくるということがある。私個人の場合だと、それは物語による影響が強くあります。物語が私を通過することによって、私のなかにあるいくつかの部分が再構成されていくということが確かにあるように思われる。この文章を書くことが決まってから、私が読んだものの一部を引用します。

人間が、今ここにあるこのしっかりした塊が、じつはぐにゃぐにゃに柔らかく、ちょっと何かが刺さったり、ぶつかったりしただけで簡単に壊れてしまう代物だというのを実感したのは最近のことだった。
こんな、生卵みたいなものが今日も無事に機能し、生活を営み、私の知っている人々、愛する人々、みんなが今日も自分をたやすく壊してしまう数々の道具を扱いながらも無事に一日を終えていることの奇跡よ……と思いはじめたらその考えが止まらなくなった。
(吉本ばなな, 2002年, 『アムリタ(上)』新潮社, p. 60.)

物語や言葉が私を通過するとはどういうことなのか、と考えはじめて真っ先に思い浮かんだのは、吉本ばななによるこの文章でした。もちろん、これは物語の一部なので、話を進めるための部品というか、流れの一部として書かれているわけですが、この部分だけを読んでも、作者の考えていることを受け取り、何かを考えはじめることができるでしょう。今までの話に沿って言うならば、私のなかでこの登場人物による主観的な思考が通過していくということ、この文章を読むことで、これを読む前にはなかったような考え方がこびりつくような感覚、気付きが与えられるのです。
しかし、過去に読んだ文章を古くさいように感じてしまうことや、物語の内容自体を忘れてしまうように、この物語も私のなかから出ていくということはある。出ていくもの、つまりは私のなかにとどまることのないものです。通過とは、筒のなかから水が流れていくように、出ていくことによってはじめて、それが「通過したもの」であると見なされます。通過とは、出ていってしまう、けれども私を変えてしまうようなものです。さらに、忘れてしまうということは、絶えず私たちが何らかの物事を自らに通過させているからです。それは物語だけではなく、私たちが経験するあらゆる出来事がそうなのです。私たちは絶えず通過し、変化していきますが、そのことは忘れられていくものです。
それゆえに、私を通過していくものとは、常に私のなかにはなかったものであり、それは広い意味での他者、自分ではないものによってつくられるものを指します。他者によってつくられるものが、私を通過することで、私のなかにある意味の経験に再編させるのです。

藤本流位
1997年京都府生まれ。
立命館大学大学院先端総合学術研究科表象領域在学。現代美術における暴力の表象を研究対象に、現在は現代美術作家トーマス・ヒルシュホーンの論文を制作している。

寝室にて
片山達貴

道路や駅構内などを舞台にした映像には、自らの身体ほどの大きさの物体を抱えた前田の姿がある。その物体は映像処理によって透明化されており実態がつかめない。本映像はこの物体を起点にしながら、様々な場所が目まぐるしく変わる様子が描かれている。あるいは彼自身が異なる場所同士をつなぐ間の存在として。
ここはどこだろうか。見慣れた私の寝室だ。ならばここからつながっているのはどこか。


前田耕平
1991年和歌山県生まれ。京都市立芸術大学大学院美術研究科構想設計専攻修了。
人や自然、物事との関係や距離に興味を向け、自身の体験を手がかりに、映像やパフォーマンスなど様々なアプローチによる探求の旅を続けている。近年の活動に、南方熊楠の哲学思想を追った「まんだらぼ」プロジェクトや、タイにナマズを探しにいく「パンガシアノドン ギガス」などがある。
koheimaeda.com

玄関にて
志村茉那美

片山逹貴の作品「Self portrait」は、彼のセルフポートレートの断片と、おそらくその撮影時の情報と思われるカメラの設定画面によって構成された映像である。音声含めどこか無機質な印象が漂う作品だが、彼の作品を観た時、私は1つの正確な像を結ばない彼と確かに「見つめ合った」。それは近頃の主要なコミュニケーションツールであるビデオ通話とは大きく異なる点だろう。ビデオ通話では本当の意味で相手と「見つめ合う」事が出来ず、相手を見ようとすればするほど視線は交わらない。機械を介したコミュニケーションは時に自己と他者の間にある埋めようがない溝の存在を明らかにする。しかし、機械を通してこそ見えてくる他者と見つめ合う時、もしかしたらこの状況下においても、私たちは自由に外に出る権利を手にするのかもしれない。


片山達貴
1991年徳島生まれ。2018年京都造形芸術大学現代美術・写真コース卒業。「つなぎ目」という言葉を起点に、互いを隔てながらも繋ぎ合わせるようにしてある、自己と他者の境界のあり方を探る。

https://tatsukikatayama.myportfolio.com/

アトリエにて
前田耕平

志村茉那美の振動が伝わってきたのは、夜遅くだった。志村の映像「MILK WAVE」では海を見ることができない”わたし”が海の存在を確かめようとする心境が描かれている。映像の冒頭に登場する船の大きな汽笛は、空気を振動させ、”わたし”に海があることを感じさせていた。アトリエのパーテーションに志村の映像を投影した。映像は微かな振動を放ち、やがて波となった。私たちがこれから求められる、まるで鯨のようなコミニュケーションの難しさを示唆しているようだ。今夜、牛乳を買いに行こう。


志村茉那美
1995年宮城県生まれ。東京藝術大学大学院映像研究科メディア映像専攻修士課程在学中。民話のリサーチに基づいた事実とフィクションを織り交ぜた物語の制作を通し、社会問題の背景にある構造の対象化を試みている。

https://www.shimura-manami.com/


イトム,2020
Kohei Maeda


Self portrait,2020
Tatsuki Katayama


MILK WAVE,2020
Manami Shimura